Quantcast
Channel: 地方議会の風
Viewing all articles
Browse latest Browse all 32

子供を預ける母親は「生みっぱなしの責任放棄」

$
0
0
白石一文「どれくらいの愛情」
 
教育実習の時は、赤ちゃんの面倒を見るのは楽しかったが、毎日毎日おむつを替えたり、あやしたり、食事の世話をしたりを繰り返したりしていると次第に気持ちが暗くなってきた。年端もいかぬ赤ん坊だから、四六時中世話を焼いていると、彼らは保育士をまるでもう一人の母親のように思いこみ始める。そういうけなげな子供たちの姿が知佳にはどうにも哀れだった。そして、そうやって親代わりになって子供たちを可愛がれば可愛がるほど、反面において、ゼロ歳児の赤ちゃんから2、3歳の幼児たちまでおしなべて、そういう無垢な存在を平気で赤の他人に預けて働く母親たちにどうしても心から協力する気持ちになれなくなっていったのだった。正直なところ彼らは、「生みっぱなしの責任放棄」と謗られてもやむを得ないのではないか、と保育現場を現実に体験してみて尚更に知佳は思うようになったのだった。

彼らは生活の糧を得るための「仕事」は十分にこなしているかもしれないが、我が子を育てるという親としての「仕事」の方は、半分もこなしていないと知佳は日々感じていた。どんなに頑張っている両親でも、残念ながらそれが事実だった。ただ、彼らは生涯、自分たちが果たさなかった「仕事」について具体的に知らずに済む。一方、預けられた子供の側も幼いがゆえに自分たちが何を与えられなかったかを具体的に自覚できずに成長する。その双方の無知が重なり合って、こんな理不尽な保育制度が存続しているのだろうと知佳は考えるようになった。

親には、子供の成長の節目節目を見届ける義務があると知佳は思う。

子供に「お母さん、僕が初めて笑ったのはいつだった?私が初めてハイハイしたのはいつだった?初めて言葉を喋ったのはいつだった?」そう聞かれたときに、その情景をきちんと子供に伝えることのできない親は本物の親と言えないのではないだろうか。だが、生後50日にも満たない我が子を保育園に預けてしまうような親たちは、そうした質問をされれば、「それは当時のあなたの保母さんに聞いてね」と答えるしかないのだ。実際、保育士たちは両親よりもその子のあれこれに詳しくなるのが常だった。最初のつかまり立ち、最初の歩行、最初の発話、最初の着替えなども親より保育士の方が先にその場に立ち会い、それを連絡帳で報告するといった本末転倒が常態化していた。
 
 
 
「それでも女房はよくやってくれたと思ってる。頑張ってたよ。けどその分、俺との関係はどんどん希薄になっていった。子供ができたら、奥さんはやっぱり自分の手で我が子を育てた方がいい。そうすれば旦那だって一目も二目も置くし、第一日頃子供に手をかけている母親の方が、仕事と育児を両立させている妻よりよっぽど旦那さんとの時間をたくさん持てると思うよ。もし昼間から子供とスキンシップができていれば、夜は夫のためにその時間を割くことだって可能だからね。ほんとは男だって仕事を休んで育児をやってもいいんだろうけど、現実には、子供の方が必ず母親を選ぶ。それは男女同権がどうのという話じゃなくて、鳥は空を飛べるけど、馬はどんなに早く走れても空は飛べない、っていう次元の話だと俺は思うよ」
 
 
 
・・・・絶望した側が、戦いに勝つことがよくある。

そして目を開くと、先生は言った。
「これはあのヴォルテールの言葉なんだけど、僕は、この言葉がとても好きなんだ」

・・・・・絶望した側が、戦いに勝つことがよくある。
初めて聞く警句だったが、正平は何度か頭の中で呟いてみる。絶望した側が、戦いに勝つことがよくある・・・確かに真実の一面を鋭く衝いたヴォルテールらしい言葉のような気がした。

「正平君、絶望と言うのは希望の種のようなものなんだよ。人間が前世から引きずってきた業や因縁のようなものを、この現世で断ち切るには、よほどの意志力と覚悟が必要なんだ。そして、そうやって絶望したときこそが、そのカルマを解消する一大チャンスなんだ。むしろどんな苦労も、そのためにあると言っても言い過ぎじゃない。もし正平君が彼女のカルマ、これは運命と言い換えてもいいけれど、を断ち切ってあげたいなら、まずは共に彼女の絶望を生きること、つまり、きみが彼女の絶望を背負ってあげることが大事なんだ。そして、きみたちにとってこの5年間はがそのための5年だったと思えば、ちっとも長くはなかったんじゃないかな。」

「つまりね、人のカルマを贖うというのは、あくまで目に見えない世界で行われることなんだ。いくら肉体を捧げても成就なんてしやしない。誰かを救いたいと思ったら、大切なのは、まず自分の心でその人の絶望や苦しみを分かち持ってあげることなんだよ。お茶断ちだって、お百度参りだって、護摩行だって、その肉体的な苦痛が何かを購うわけじゃない。そういう辛いことを敢えて我慢するという心の努力や苦しみがあって、初めて、それが力となって愛する人を絶望から解き放ってあげることができるんだ。」

「だからね、正平君。いま君と彼女は離れ離れになって互いに辛い思いをしているかもしれない。そしてそんな辛い気持ちの中で、互いに相手の幸福を願っている。そのことがね、まさにそのことが、少しずつ効いてくる優しい薬のようにきみたち2人の背負ってきた罪や後悔、悲しみを緩和してくれるんだ。人間は毎日一緒にいればそれだけで愛し合っていられるわけじゃない。逆にずっと離れて暮らしていたって、たとえ死に別れてしまったとしても、心から相手のことを思う気持ちがあれば十分愛し合えるんだ。そしてそうやって愛し合うことで、人間はお互いが前世から背負ってきた荷物を一つずつ減らし合っていく。どんな優れた宗教家でも、祈りこそが何より一番大切だと常に説いているのは、要するにそういう意味なんだよ」

 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 32

Latest Images

Trending Articles





Latest Images